日本橋七福神巡り

= 2014.01.06 =

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 日本橋七福神は中央区人形町周辺にあり、地下鉄各駅からのアクセスが良く周り方もいくつか考えられる。
今回は、都営地下鉄浅草線 東日本橋駅から近い笠森稲荷神社をスタートとし、日本橋掘留町の椙森神社をゴールとした。
椙森神社からはJR線新日本橋駅や日比谷線・浅草線人形町駅などが近いが、ちょいと足を伸ばし電子部品購入のため秋葉原の秋月電子に寄った。

日本橋七福神<中央区>
七 福 神寺 社 名所 在 地
寿 老 人笠間稲荷神社中央区日本橋
浜町2-11-6
毘沙門天末廣神社中央区日本橋
人形町2-25-20
弁 財 天水 天 宮中央区日本橋
蛎殻町2-4-1
大 黒 天松島神社中央区日本橋
人形町2-15-2
布 袋 尊茶の木神社中央区日本橋
人形町1-12-10
福禄寿
弁財天
小網神社中央区日本橋
小網町16-23
恵比寿椙森神社中央区日本橋
堀留町1-10-2

笠間稲荷神社
 笠間稲荷神社は、日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷神社(茨城県笠間市)の東京別社で、常陸国笠間藩 牧野家当主の牧野貞直が下屋敷のあった当地に、御分霊祀ったことが始まり。

日本橋七福神

末 広 神社
 末広神社は、江戸時代の初期に吉原がこの地にあった当時(元和3年から明暦3年まで)、その地主神、産土神として信仰されていた。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていた。
社号の起源は、延宝3年社殿修復の際、年経た中啓(扇)が発見されたので氏子の人達が悦び祝って末廣の二字を冠したもの。

日本橋七福神

水 天 宮
 文政元年(1818年)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創め。
 江戸時代、庶民は普段参拝できず、縁日に限り参拝を許された。ご参拝の妊婦さんが鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを腹帯として安産を祈願したところ安産だったことから御利益が広がった。
 明治維新により青山へ移るが、明治5年11月には現在の蛎殻町に鎮座した。
 現在、社殿(昭和42年建築)立て替えのため、平成25年3月1日より日本橋浜町に仮移転中。

日本橋七福神

松島神社
 松島神社の創建年代は不詳だが、鎌倉時代の元享(1321)以前に、柴田家の祖先が下総から移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されている。天正13年(1585)に邸宅を公開した際、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代に付近が松島町と名付けられ、明治7年には松島稲荷神社として村社に列格していた。

日本橋七福神

茶の木神社
 茶の木神社は、下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷にあった守護神として祀られていた。社周囲の茶の木が見事だったことから名付けられた。屋敷内だけでなく周囲にも永年火災が起こらなかったため、火伏の神と崇められ、昭和60年には布袋尊を遷座した。

日本橋七福神

小網神社
 小網神社は、悪疫消滅鎮静を祈願するために、恵心僧都が文正元年(1466)稲荷大神を勧請、時の領主太田道灌が小網稲荷神社と命名した。

日本橋七福神

椙森神社
 椙森神社は、平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社で、江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれていた。

日本橋七福神

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